頭の中を整理するための記事です。

 

 

昨晩、私が投稿したアーユルヴェーダの記事について、夫婦で白熱議論になりました。

 

 

 

主人は理系で科学的思考に基づいて世の中の事象を捉えるタイプの人です。

 

私は文系だからというのを言い訳に、科学的に物事を捉えることをせず(苦手)、感覚で何か正しそう!とか、なんか信じたい!とかいうことを信じてしまう傾向にあります。

 

 

私は

「アーユルヴェーダでは○○と食べると△△に効くと言われてる」

と聞けば、

「へえ、面白い!そうっぽーい!覚えとこう!」

とすぐに信じてしまう思考回路なのです。

 

 

何も心底100%それが真実だと信じているわけではなく、もちろん半分疑いの目で見ながら、面白いから取り入れてみようと思っているときも多いですが。

 

 

 

 

例えばアーユルヴェーダでは、体の中に消化の火があって、火が弱まると消化力が落ちて体内に毒素が溜まると考えられています。

ayurveda-agni-digestivefire.jpg

 

私もさすがに本当に体の中に火があるとは思っていません。

 

 

 

その事象を観察する私の立ち位置は、こんな感じ。

 

 

 

消化酵素が食物を分解していく過程を

 

「たんぱく質が・・・ペプシンになって・・・腸を通過しアミノ酸になって~~」

という構造が解明される前に、消化を火に例えたインド人すごいな~

 

 

しかも生物学の観点から、消化を分析するのとは違う角度から見ると一歩深く消化について考えられた気がする~

 

 

 

 

火があると仮定することで「消化」という現象を理解する手助けになると私が捉えている例です。

 

 

 

 

 

一方でアーユルヴェーダの知識の中には、科学的には間違えていると言わざるを得ない教えもあります。

 

 

私はまだ飲み込め切れていないので、誤りの例には主人の意見を用います。

 

 

mirror-tongue-diagnosis1

 

 

「この右図の舌と臓器のマッピングのように、あまりに平易で分かりやすく、かつそうである必然性がない説は誤りの可能性が高いと言える。

実験を経た結果に基づいた事実ではなく、なんかそんな気がするから正しいことになっている説だから。

それは重力が解明される前の大昔、目に見える範囲で地面が平らだから、平らだと信じられていたことや、星が地球の周りをまわっているように見えるから天動説が唱えられていたこと、それに現代でも科学的根拠がない血液型性格診断が受け入れられているのと同じで、正しい可能性は極めて低いんだよ。」

 

 

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舌と臓器の地図を眺めていたときは、どれどれ観察してみようと鏡で自分の舌を観察していた私ですが、

地球の形は、過去に見聞きした色々から球体が正しいと信じているわけで、主人の主張に反論できません。

 

 

 

 

舌が臓器と本当は繋がっていてくれたら面白いけれど、

地球の例を出されると途端に舌は臓器と繋がってるという考えに疑問が湧いてくるのでした。

 

 

 

私は色んなことを、そんなに疑わなくても信じられちゃうお気楽マインドで、

真実から遠いところでもハッピーに暮らしてしまえちゃうんだな~と気づかされました。

 

 

 

 

・その事実とされているものが、何回の実験を経た結果に基づくか

・その実験は、条件に厳しく正しく行われていたか

・その実験は統計の取り方、数字の記録は正しいか

・その実験の統計を観察、考察した人の数字の読み解き方、使い方は正しいか

 

 

 

そんなことに目を向けずに「それっぽーい!」と信じているわけです。

その姿勢が良いか悪いかというのは置いておいて。

 

 

 

昨日主人にこうも言われました。

「人は人を嘘つきか信頼できるかを判断するときに、10回言ったことの中にいくつ嘘が入っているかを基準にするよね。

だからあまり多く【事実かもしれないけど、違うかもしれない。体に効果があるかもしれないけど、ないかもしれない】類のことを発言してるとそのうち信頼されなくなるよね。」

 

 

 

たしかに・・・その通り。

嘘つきにはなりたくない!

人から信頼されなくてもいいのよオホホ・・・というほどにスピリチュアルな世界には住んでいない。

 

 

なんか面白いから勉強してみて、それをなんか面白いよ~と、無差別に紹介してしまったら信頼を失うんではないか。

 

と怖くなったわけです。

 

 

 

 

でも私は同時にこうも思いました。

 

「心から真実だと思ってるわけじゃなくても、面白いから学んでるんだもん。

それを【こっちが科学に代わる新しい真実だよ~~~👻】と人に紹介するのではなく、真実じゃないかもしれないけど面白い考え方見つけたよ~と紹介するんだもん。」

 

真実が全てじゃない、それによって面白いと思えたり、その考え方で料理をするのが楽しい、それによって幸福感的な何かを味わえることだって価値じゃないか!というような考えが芽生えてきました。

 

 

 

 

すると主人はこういいました。

 

「それはそうだね。僕だってお笑いを正しいから見ているわけじゃない。真実だからではなくて、面白いから見ている。

でも医療においてもその姿勢でいいのだろうか?

【舌を見ると不調がわかります】とか言うならば、お笑いよりは医療に近いところにいるわけで、面白さより役に立つことの価値が高いんじゃないかな?

医療とは言わないまでも、お役立ち情報を学ぶなら、『AはBに効く』という文に、Aに1000種類の食材、Bに100種類の体の部位からランダムに単語を挿入してできあがった情報よりは、真実性もしくは役立ち度が高くて初めて、学ぶ意味がある」

 

 

 

 

料理は面白いことに価値があるかもしれないけど、他の多くのアーユルヴェーダの知識はやはり娯楽よりは医療に近い立ち位置にいるはず。

 

 

 

 

完敗です。

もうグウの音も出ません。

 

 

 

 

 

なのに主人は私に、なにもアーユルヴェーダを辞めて、西洋医学や栄養学にシフトしていってほしいと言ってるわけじゃないと言います。

 

 

私は自分が時間を費やしているアーユルヴェーダ全体を批判されたような、価値がない知識体系のような気分になって悲しくなり、今後何をどう学んでいったらいいのかわからなくなり困りました。

 

 

ですが、こんなにアーユルヴェーダを批判しているように見える主人の専門の言語学にも間違えた主張を発信している人はいることを知りました。

 

だから言語学を学ぶときには、色んな視野を持って正しい知識を厳選していくようにすると。

 

 

 

他のあらゆる学問にも正しい知識と間違えた知識とどちらも沢山転がっているということです。

 

 

 

私は学問についてあまり深く考えたことがなかったので、深い知識を習得していく方法を知らなかったようです。

 

 

深く知識を得ていくということは、読んだこと全てを信じていくのではあまりにも遠回りで、

批判的な目を持ちながら多角的に捉えて知識を取捨選択していく必要があるみたいだと初めて体感したわけです。

 

(そういえば高校生の時からそんなことは口酸っぱく言われていたことを思い出したけど、批判しながら物事に向き合うのって疲れるから聞き流していたようです)

 

 

 

 

 

今日からアーユルヴェーダに向き合うとき

 

正しい教え、役に立つことだけでなく、間違った主張や役に立たない教えも沢山転がっているはずだ。

そこを歩くときは、よく厳選して知識を選んでいこう。

明らかに誤りで且つ、役に立たないことは手に取っても自分の中に持ち帰ることはしないでいこう。

 

という姿勢でいってみようと思う、新しい気分の一日でした。

 

 

 

 

 

 

さて、そんな昨日の議論について哲学的な思索をしながらニーチェの言葉を読んでいたら心にグッとくるものがありました。

 

 

―――かつてはこれこそ真実だと思っていたものが、今では間違いだったとおもう。かつてはこれこそ自分の変わらぬ信条だとしていたものが、今では少しちがうと思う。

 

それを、自分は若かったとか、浅かったとか、世間知らずだったと断じて葬らないほうがいい。なぜならば、当時の自分にとっては、そう考えたり思ったりすることが必要だったのだから。当時の自分の段階にあっては、それが真実であり信条だったのだ。

 

人間は常に脱皮していく。常に新しくなっていく。いつも新しい生に向かっている。

 

だから、かつては必要だったものが、今は必要でなくなったにすぎないのだ。だから、自分を批判していくこと、人の批判を聞いていくことは、自分の脱皮をうながすことにもなるのだ。さらなる新しい自分になるために。―――

 

 

う~ん!ニーチェさんありがとう。

 

 

 

 

「だって○○だもん!じゃあどうすればいいの?」と噛みつく私に、平易な言葉で懸命に批判してくれた主人にもお礼を言いたいと思います。

 

―2017.2.28記―